院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


命の重さと、ぬくもりと

  娘が小鳥を飼いたいと言い出した。私は高校生の頃、九官鳥を飼っていた経験があるものの、あまり可愛がった記憶がなく、鳥類には不案内で、あまり興味もなかった。しかし、細君は小さい頃、小鳥を何十羽と飼ったことがあるらしい。セキセイインコはああだ、十姉妹はこうだと鼻の穴をふくらませて蘊蓄をたれる母親を、娘はキラキラした目で見つめた。「ちゃんとお世話するから」と食い下がる娘。ところが細君は、結局は自分が面倒をみることになるのは火をみるより明らかなので、二の足を踏んだ。二ヵ月後、娘のしつこいおねだり攻撃に負けて、ペットショップでセキセイインコの雛を吟味するほほえましい家族。人に馴れさせるには小さいほど良いらしい。しかし雛といってもややトウのたった小鳥しかなく、細君は「手乗りになるかどうか、ぎりぎりのところだわ」と言いつつも、活発で近くに寄ってきた青い小鳥を選んだ。「あまり人に馴れず、手乗りにならなくても、それはそれでかわいいものよ」と細君。娘は小鳥を飼う事がうれしくてそんなことはお構いなし。私は正直、「手乗りにならないんだったら、昔飼っていた九官鳥とおんなじだ」と少々不満であった。家に着いて、蓋を開けてみると、このセキセイインコは人を避けることなく、指につかまってお湯でふやかした粟をおいしそうについばむではないか。子供たちが、不死鳥・フェニックスにちなんで、フェニーと命名。フェニーは我が家のアイドルとなった。一番関心の薄かった私が、一番かわいがるようになり、毎日の水替えや鳥かごの掃除は私の日課となってしまった。ところがこの状況は、わたしが、フェニーに小鳥用の鏡やおもちゃを買ってきた日に一変する。それらのグッズを鳥かごのなかに入れたとたん、フェニーは人が変わったように、いやもとい、鳥が変わったように心を閉ぎしてしまった。鏡を見て鳥としての自覚に目覚めたのか、おもちゃのひとり遊びで満足してしまったのか、鳥かごから出ようとしなくなり、手を入れるとつつくようになった。家族、特に私の落胆は筆舌に尽くしがたいものがあった。しかもその数日後から、フェニーは右足を引きずりびっこを引くようになり、止まり木にも左足一本で止まるようになった。良く見ると小枝のような指が少し変形し曲がっている様でもある。日中でも目を半開きにし、羽毛を膨らませて体を揺らした。このまま死んでしまうのだろうか? 悲しい予感に家族は言葉を失った。しかし、その日から私のかいがいしい努力が始まる。栄養をつけようと高級飼料を買ってきたり、カルシウムが足りないのではと塩土を買ってきてなめさせてみたり、好物のパン粉を与えたり、寒くないようにと電気毛布の上に鳥かごを置いた。常に愛情を込めて声をかけ、慈しんだ。その献身ぶりには遠くから眺めていた細君も涙を誘われたらしい。そんなある日、フェニーは足を引きずりながらも、自ら進んで私の手.に乗るようになり、パン粉をねだるようになった。愛らしい鳴き声も戻り、私とフェニーの蜜月時代が到来した。今では足も完全に良くなり、玄関に私の声がすると、鳥かごから出してくれといって鳴く。ほかの家族の声ではそんなことはないと細君が憮然として言う。フェニーのお気に入りの場所は、私の幅広い肩である。おかげで鳥の糞の跡が大変と洗濯をしながら細君がぼやく。ほかの家族の手に止まっているフェニーを私が呼ぶと、一目散に飛んでくる。一旦、私のもとに飛んできたフェニーは誰が呼んでも知らん振り。「ういやつ」私はフェニーの喉をなでる。フェニーは気持ちよさそうに目を閉じて首を傾ける。いま指先に感じているのは、軽いようでいて不思議な重量感のある小鳥の、命の重さとぬくもり。唯物論的に言えば、航空力学的に必要な軽さと生物学的に必要な重さとのせめぎ合い。宙を舞うには想像を超えるエネルギーが必要で、それを生み出すため鳥の体温は四十度近くもあるという。「つまりはこの重さとぬくもりなんだ」唯神論的に考えてもいい。命という形而上的な概念が見えざる意志によってぎゅっと凝縮されると、形而下的にはこの重さに落ち着いて、その密度によってぬくもりが生まれてくる。なんと心地よい重さとぬくもりなのだろう。近頃、自分の子供を手にかける親あるいは親に殺意を抱く子供たちの事件があとを絶たない。そんなニュースを聞くたびに背筋が寒くなる。人はデジタル化された情報と、合理化され機械化されていく文明の中で、その対極にある命の重さとぬくもりを肌で感じる力が、遺伝学的にも衰えつつあるのではないか? 杞憂であったらいいと思う。しかし一抹の不安はぬぐえない。フェニーが指先に止まっている。命の重さとぬくもりとを肌に感じて私は幸せである。「私はセキセイインコを飼ってはいない。フェニーと暮らしているのだ」そんな気障なせりふを聞いて、笑うと思った細君が「そうね」と頷いた。


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